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大学改革に関する問答

 

 

日本経済新聞2001626日(火曜日)朝刊一面の記事「教育を問う 第七部改革への青写真(4)」に私のコメントが載りました。以下の文章は、そのときに受けたインタビューに基づいて書かれた草稿(手紙)です。

 

 

 

吉田ありさ様

 

昨日は、わざわざニューヨークまで国際電話をかけていただき、大変ありがとうございました。そして、吉田さんとの会話をとても楽しみました。ただ、私にとってインタビューというものがはじめてであったこと、また、海外生活が長くなり日本語を忘れ始めているということもあって、ご質問に適当な応答をできたかどうか不安です。私が考えていることを少しでも明確にするために、先日のeメールでのご質問に対して以下のような応答を書いてみました。ご参考になれば幸いです。

 

 

Q 段階的な授業料免除や奨学金貸与の仕組みなど、アメリカでは導入できているのに、なぜ日本では導入できないのか。

 

A 日本ではこれまで、中間大衆の形成とそれに基づく経済成長という社会的目標が優先されてきた。そのために、軍隊における行進訓練のように、平等な作業環境のなかで個々人から最大限の努力を引き出すようなインセンティヴ・メカニズムが考案されてきた。「平等」の理念は、「みんながんばっているから自分もがんばらなければならない」という「努力の平等な行使」を意味し、能力があまりなくても努力することがもたらす社会的価値を称揚してきた。これに対して、段階的な授業料免除などの選抜システムを導入すれば、そのような平等の理想は打ち砕かれてしまう。能力と努力によって人を選別するシステムにおいては、がんばる人には勉強するための強いインセンティヴを与えるが、そうでない人にはむしろ勉強へのインセンティヴを失わせてしまう。つまり能力主義社会になると、「平等な作業環境の中で個々人から最大限の努力を引き出す」ということができない点に、問題が生じてしまう。

 こうした理由から、中間大衆層の能力を最大限に引き出すシステムとして、平等主義のシステムがながらく採用されてきた。しかし他方で、平等主義の理想は、社会の複雑性の増大に伴い、「悪平等」の現実に転化しつつある。つまり、「みんなで努力する平等」は、「みんなで努力しない平等」へと移行しうるのであり、実際、「みんなが勉強しないから自分も勉強しない」という心理は、ますます増大しつつある。

 第二に、奨学金の問題は、大学名ブランドの問題と関係している。例えば、慶応大学の学生およびその卒業生は、「慶応大学」という社会的ブランド価値を、人生のさまざまな場面で享受することができる。ところがもし、段階的な授業料免除などの選抜システムが導入されると、「慶応大学」というブランド価値に問題が起きる。「授業料免除」というプレミアムをもつ学生は、自分は単なる慶応大学生ではないということにプライドを持つが、そのプレミアム価値は、ブランド名としては流通していない。どの程度の授業料免除なのか、どの程度の奨学金貸与生なのか、といったプレミアム価値の複雑なアイテムについて、多くの人々は適格な評価をできないからである。

また授業料免除などの導入は、その資金源を得るために、レベルの低い学生をより多く入学させなければならない、そうした対応は、必然的に大学名のブランド価値を下げてしまうだろう。そしてもし大学名のブランド価値が低下すれば、いかにそのような大学で授業料を免除されたとしても、その学生は自らの社会的ブランド価値を半減させてしまうだろう。複雑な授業料免除システムの導入は、単純なブランド名がもつ社会的価値を低下させてしまう。こうした理由から、多くの大学は、奨学金制度を導入するよりも、大学名ブランドそれ自体の向上を優先してきた。

 しかし今後は、少子化に伴い、大学名ブランドがもつ価値は、全体として低下せざるを得ない。すると大学側は、大学入学者の中でプレミアム価値を段階的につけることがますます必要になってくるだろう。つまり、その大学のトップ・クラスの学生を優遇することによって、大学全体のブランド・イメージを確保しなければならなくなるだろう。また実際、大学進学率が10%であった団塊の世代は、「大卒」という単純で強力な評価尺度しか持てなかったが、大学卒業が一般化したその後の世代においては、どの大学をどのような形で入学・卒業したかについて、いっそう複雑な学歴評価をできるようになっている。こうした評価能力の発展に応じて、諸大学は自らのブランド名だけでなく、授業料免除などの複雑なプレミアム価値を学生たちに供給しやすくなっているのではないだろうか。

 

 

Q 最低年齢の15歳で東大に入学するという競争が激化するのではないか。

 

A 少子化傾向の中でわれわれは、どのように競争を再編するのか、という競争政策の問題を考えなければならない。これまでの競争形態は、ほぼ均一な年齢層のあいだで競争すること、そして人々の関心を大学入試の一点に集中させること、この二つの制度的工夫によって、受験競争を激化してきた。しかし今後は、そのような「機会の限定」と「関心の限定」はますます機能しなくなるだろう。端的に言えば、最初からそのような受験競争を諦める人が多くなるだろう。がんばって少しでもよい大学に入ることが、人生を格段によくすることなど保証されなくなってきたからである。これに対して私の改革案は、受験競争の「分散と継続」を主張している。自由社会において必要なのは、教育における「機会の拡充」と「試行錯誤の強化」である。それゆえ、15歳の段階から大学入学試験を受けるという選択の機会は、学生たちの自由権として認められるべきである。

 ただし、私の提案するシステムにおいて、東大に15歳で合格させたいという親は少ないであろう。実際、15歳で東大に入学するような学生は、その後の将来がリスキーである。彼は、有能で高所得のエリートになる可能性が少ないだろう。また通常の意味においては、企業では使い物にならないだろう。むしろ学問や特殊な分野で能力を発揮するだろう。多くの親にとって子供の教育はある種の投資であるから、こうした最年少東大合格という目標に受験競争が焦点化する可能性は少ない。もちろん、マスコミの関心は集中するだろうが、しかし誰もが芸能人になりたいなどと思わないように、誰もが最年少で東大を合格したい、あるいはさせたいと思うわけではない。

 

 

Q なぜ大学入試の改革は進まないのか。

 

A 大きな制度改革は一般に、期待の断絶を生む点で困難をはらんでいる。大学入試の場合、次の年から制度がガラリと変わると、高校教師、予備校教師、受験生およびその両親たちは、それに応じたすばやい対応をすることはできない。

 そこで私のラディカルな提案が現実のものとなるためには、次のような自生的なシナリオを考える必要がある。すでに地方の大学において、少子化・過疎化のために、受験者の大半が大学入試を簡単にパスしてしまう事態が生じている。そのような大学においては、もはや大学入試試験は人材選抜システムとして機能していない。今後はますますそのような大学が増えるであろう。そこで仮に、ある大学が自主的な改革を試み、三年次進級テストおよび卒業資格の貸与を厳しくし、その結果として卒業生の就職先が、他のよりすぐれた大学の学生(例えば慶応大学)よりも平均して優れている、という成果を得たとしよう。これは私が提案している大学改革の基本的趣旨に合致した事態でもある。

 この成功した大学について情報を得た他大学の学生たち(とくに一二年次に在籍中)は、その三年次進級テストを受けて大学編入を目指すようになるだろう。また多くの高校生は、浪人するよりも、とりあえずどこかの大学に入学してから、そのような三年次進級テストの厳しい大学を受験しようとするだろう。こうして改革に成功した大学は、たとえ三年次進級テストによって多くの学生を不合格にしても、多くの受験者を確保でき、よりすぐれた人材を集めつづけることができるだろう。

 以上のようなシナリオを多くの大学が模倣するならば、その過程を通じて、私の改革案は少しずつ現実化していく可能性がある。つまり、入試が機能しなくなった大学から、三年次進級テストと卒業資格の強化にもとづく人材の実質的教育を試み始めることが、現実的かつ自生的なシナリオである。ただし私の改革案は、基本的かつ最終的には、ラディカルな制度改革を求めている。

 

 

Q 現在の動向とは逆に、教養教育を導入するメリットは個々の大学にあるのか。

 

A 現在のように、大学入試が学歴の最終関門となるようなシステムにおいては、初年次教育そのものが機能していないという恒常的な問題がある。つまり初年次教育においては、教養科目であれ専門科目であれ、成功するはずがないのである。また最近の学生は、その20%が休学ないし留年をするということで、学部学生時代におけるモラトリアムはますます長期化する傾向にある。今後この傾向が続くならば、学部卒業の平均年齢は、25歳くらいまでに上昇するだろう。すでにドイツでは、これが26歳である。多くの学生たちは、学部時代において、自分が何をしたいのかを迷いたい、迷う必要がある、と感じている。そうした学生にとって、初年次における専門教育など、実際には役立っていない。専門教育を導入した結果として実際に起きていることは、すぐれた専門人の産出ではなく、無意味なモラトリアムの長期化なのである。

 これに対して私の改革案では、学生たちがなるべく初年次において人生を大いに迷うことができるようなシステムを構想している。初年次における新しい教養教育によって、人生を試行錯誤する機会を豊富にそろえること、そして三年次進級資格試験の導入によって転部や転校を容易にすること、これが重要である。つまり、自分が何をしたいのかを試行錯誤の中で発見するような制度的メカニズムが求められているのである。

 実際、多くの大学は、私の改革案を導入するニーズを持っているように思われる。とりわけ地方都市にある大学は、その地方の政治・経済・文化に関する全般的な教養をプログラムに組み込むことによって、その地域の発展と相互交流を促すことができるだろう。私の改革案が求める教養の重視は、従来のやり方とは違って、大学の外部との交流を一層促進しようとしているのであるから、個別の社会的ニーズに応じてプログラムを変更することも可能である。

 

 

Q 東大の学生の大半は首都圏の富裕層出身で同質化が進んでいるという事態をどう見るか。

 

A 世代間における階層間移動の縮小は、社会全体とりわけ産業のダイナミズムが失われていくについて起こる、必然的な「保守化」現象である。われわれの自由社会において、多くの試行錯誤を試みる機会があまり利用されていないということは、人々の関心が身の回りの現実に限定してしまうことと並行してもいる。結果として例えば、子供にとって親の職業を継承することは、最も現実的かつ意義深いもののように見えてしまう。なるほどある種の高度な文化・芸術は、このようにして継承・発展されることが望ましいのだろう。しかし社会全体としては、そうした事態が望ましいとはいえない。大学という制度は、学生にとって自らの人生の幅を広げるような、魅力的な試行錯誤の空間として利用されなければならない。

多くの人が危惧するように、大学が富裕層の同質化したコミュニティとなるならば、新たな知的創造は生まれにくい。知の成長とそれに基づく社会の成長を企てるためには、大学制度において、異種交配にもとづくコミュニケーションのダイナミズムが必要である。大学生にとっては、異質なものとの出会いを避けないこと、否が応でも多様な世界に巻き込まれること、そのような経験が「新しい教養」として求められている。

 私の改革案では、大学三年次への進級資格試験を設けることによって、必ずしも親の財力と文化的資源には左右されないような人材の選抜を求めている。なるほど18歳でよい大学に入るためには、親の影響が不可欠である。しかし私の改革案においては、例えば22歳で大学三年次に進学するために、高校卒業後、学生たちが親の影響を離れた後、自らの試行錯誤を通じて自律的に受験するという契機が重要となる。つまりこのシステムでは、子供の人生が親の財力と職業にあまり左右されないように、流動的な人材の配置を構想しているのである。例えば地方の低所得層に生まれた学生が、とりあえず地元の大学に入学してから、大学三年次進級試験において東大を目指すことが可能になるだろう。そして彼はそのような機会と動機を、早い段階で挫かれずに維持することができるだろう。

 ところでまた、別の観点から一つ新たな提案がある。大学生の同質化を避けて社会の流動化を促すためには、学生の三分の一を留学生にすることが望ましいのではないか。すでにニューヨーク大学では、三分の一の学生が留学生である。また留学生なしでは、アメリカの大学経営は機能しない。留学生との交流は、社会を非常に多様かつダイナミックなものにする。大学改革において重要な問題は、いかに多様な空間を生みだすか、という点である。留学生との多様な交流は、それ自体が新しい教養の理念にかなっている。

 

 

Q 21世紀において、教育はどのように変わっていくべきなのか。

 

A 20世紀における日本の教育はある意味で成功した。すなわち、だれでも高等教育を受けるだけの機会と能力を身につけることが可能な制度、言い換えれば、平等な関係の中で個々人の最大限の努力を引き出すようなシステムを生み出すことに成功した。しかし21世紀においてそのようなシステムは、平等よりも自由を理念に置くような制度に改革されなければならない。平等の理念は、それ自体のみでは「悪平等」への転落を避けることができない。

では、自由の理念に基づく新たな社会制度とはいかなるものか。20世紀において自由とは、「解放」を意味した。解放としての自由を求める人たちは、教育制度において、偏差値教育の廃止、大学入試の廃止、管理教育の廃止を訴えた。すなわち彼らは、「一元化」された社会システムからの「精神の解放」を要求した。そして彼らの要求は、ある意味でその一部が実現したといえる。というのも、少子化や経済的成熟に基づく教育水準および教育投資の全般的低下傾向によって、一元化された受験競争という制度そのものが機能しなくなってきたからである。しかし多元化された社会は、それ自体が精神の解放をもたらすわけではない。解放の理想は、大いなる社会的多元性を前にして、多元的な社会そのものからの撤退、あるいは精神世界への逃避、といった方向へ進む傾向がある。

では、現在のように多様化した社会において、われわれは何を批判し何を創造すべきなのか。解放されるべき強制的・一元的な制度が機能しないところでは、「自由」はもはや「解放」のみを意味することはできない。自由とは、拡充された機会をもつことだけでなく、その機会の多くを社会の中で「利用」する「実践感覚」をもつことでなければならない。言い換えれば、自由な社会とは、多様な機会のなかで「試行錯誤」を試み、その質と量によって自らの自尊心を鍛えることでなければならない。批判されるべきは、拡充されたはずの機会を人々が利用しないという保守化現象である。保守化を防いで異種交配を促すこと、自由な機会の利用を制度的に促進すること、そして自由の理念を、社会と個人のインタラクティヴな「成長」の理想に結びつけることが、ますます重要になっている。

 

 

以上ですが、この他、メモ程度に書とめておきたいことがあります。

まず、「最も公的資金を導入しているはずの東大生」というのは誤りで、その資金の大半は研究に使われています。

もう一つは、韓国の大学生についてです。韓国では、大学生のときに、一年間の語学留学(英語)をすることが一般化しています。80%くらいの学生が留学していると聞きましたが、本当でしょうか。例えばミシガン大学の教育学部では、留学生の八割が韓国人であったという話などを聞きます。こうした留学経験がないと、韓国では就職が不利なようです。これに対して日本では、なぜ一年程度の短期留学が奨励されないのか不思議です。どう思われますか。

 

吉田さんとの会話を通じて、私は自分の考えを少し発展させることができました。このような機会を頂き、大変感謝いたしております。ではお体には十分気をつけて、よい仕事をつづけてください。

 

敬具